こんにちは、
融資コンサルタントの小堀大藏です。
あなたの事業が成功するよう祈って、このブログを書いています。
コロナウイルスによる対応が一段落して、次の第二波、第三波に備えるとともに、経済の再興をするために、いろいろな規制が少しずつ解除され動き出しつつあります。
今月は、少し引いて、厳しい経済環境になった中で、中小企業が、小規模事業者が生き残っていけるのか、金融の歴史に学びながら振り返ってみたいと思います。
今日のテーマは、「コロナ以前の融資と金融機関の基本方針 バブル崩壊と金融マニュアル」です。
かつて「バブル経済」と呼ばれた時代があり、平成元年(1989年)には、日経平均株価が38,915円の最高値をつけました。”Japan is No.1” などともてはやされ、世界をリードする地位を得たとの自信に溢れていました。
1985年プラザ合意以降、日本は、アメリカに対して内需拡大を約束し、ジャパンバッシングへの代替案として、公共事業やリゾート開発などの事業のために不動産への投資を進めました。その結果、大都市の地価からドンドン上昇し始めました。
1986年には、公定歩合が5%から徐々に下げ、翌年には半分に。その結果、銀行は、不動産担保融資では、いくらでも貸す。その結果、地価は全国で高騰し続けていきました。しかし、それから3年もしないうちにブラックマンデーが起きたのです。
日銀の利上げは、1989年だけで6回におよび、更に、大蔵省の総量規制から、一部金融機関が不動産会社に対する資金を絞った結果、あっという間に暴落が始まり、バブルが崩壊しました。不動産価格が暴落し、株式市場が混乱しました。
そのツケは金融市場にも伝播し、1997年、山一證券の破綻、北海道拓殖銀行の破綻、1998年、政府系の日本長期信用金庫、日本債券信用銀行が破綻しました。また、住宅金融専門会社の破綻を受けて、大手銀行にも綻びが出て、15行に公的資金が注入されるに至りました。
そうした中で、金融監督庁が1998年に発足し、その後2000年に金融庁になりました。ところで、1999年には、金融機関の検査マニュアルを発表し、バブルの経験から、不良債権を持たないよう指導し、融資の根拠を企業審査における格付けに置き、そのような格付けと、引当金を積んでいるかを検査しました。
まさに、検査マニュアルは、金融機関はバブル崩壊後の混乱の中で、金融業界が生き残って行けるように、定量的な基準を決め、どの金融機関も同じ基準の中で融資の実行と担保や保証の取り付けをする様に求めていました。これも、金融業界を守ることで、日本経済の安定を図ろうとしていたためです。
その結果、厳しい言い方かもしれませんが、現在の銀行の行員たちは、決算書を入力したら、融資の可否と貸付限度をパソコンが教えてくれることに慣れてしまっています。幹部の方々は、まだ「どぶ板」を渡って中小企業の社長の話を聞くといった定性的な事業評価を肌で知っているのでしょうが、かなり古いのが実態です。
しかし、その数字だけの評価方法は、日本の起業家マインド冷やし、多くのベンチャーの資金調達を阻害してきました。また、事業も、業界も知らない金融機関と、金融庁が自分たちの役割と業界を守るために、どのように日本の経済を、たくさんの中小企業や小規模事業者を育て、そして金融業界を発展させるかの議論を忘れてしまっていたのです。
2019年12月18日に金融検査マニュアルは廃止されました。バブル崩壊から27年。新たな地域金融制度を金融庁は、これに関するいろいろな方策について発表しています。順次解説していきます。
コロナの混乱から「金融円滑化法」が実質復活したことを昨日触れました。新たな金融庁の方針が浸透する前に、この大きな変動の中で、個々の地域金融機関が生き残るためにも、一段の努力をしなくてはいけません。金融庁が「マニュアル」を用意してはいけないのだと思います。